「文は人なり。書は人なり。」
私は、子供の頃に、「文は人なり。書は人なり。」と教わった事がある。誰に教わったのかは、覚えていない。子供の時には、この言葉の意味は良く分からなかった。でも、きれいな字を書くことが大事な事だと理解していた。
小学校一年生のある日、私は担任の先生に呼ばれて、一人だけ特別な宿題を出された。
「・・・・さん。これは、あなたのノートだけど。ここには、何を書いたの?読んでくれる?」
先生が指で指示した所は、ついさっき書いたばかりの所だった。
「あのね。・・・・・・と書いたよ。」
「そう。分かった。ちゃんと書いたのね。それじゃ、ここは?」
先生は、誉めながらも質問を続けた。そこは、昨日、書いた所だった。
「ええっと。・・・・・・と書いたよ。」
私は、しばし思い出しながら答えていた。内心、自信が無かったのだ。それも当然の事だった。そこに書いてある言葉は、文字と呼べるようなものではなく、「ミミズが這ったような字」だった。文字と言えるような形も成していないし、記号として判別できるようなものでもなかった。しかし、
「そう。昨日もよく勉強したね。書けていたのね。」
先生は、誉めてくれた。自分でも、よく覚えていたなと思いながら、自分のノートの字と級友のノートの字を横目で追っていた。級友のノートに記された文字は、きれいで読み易い文字だった。私は、文字を読むのが得意だったし、書いてある事も良く分かる子だった。三人兄弟の末っ子だった私は、四、五歳の頃より姉や兄のまねをして絵本や物語を読む遊びをしていた。そんな私に兄や姉は面白がってひらがなは元よりカタカナや漢字までも教えてくれたからだ。
「それじゃね。・・・・・さん。こっちは何て書いたの?」
「ええっと。ええっとね。・・・・・。わがらねぇ。」(わがらねぇ=分からない。方言)
もう、読む事も判別する事も思い出す事も不可能だった。
「・・・・さん。先生はね。・・・・・さんの書いた字を読みたいけど、読めないから困っているの。」
「だからね。今度はね。この本のお話をこのノートに書き写して来て欲しいの。いい?お家に持って行って、書いて来てね。」
そう言いながら、先生は真新しいノートと絵本を私に手渡した。私は、自分だけに持ち帰りを許された絵本が嬉しくて、自分だけの特別な宿題である事はこれっぽっちも気にならなかった。『舌切り雀』という題名の絵本だった。
この宿題は、それから一年半、毎日続いた。始めてから三月も経たない内に、教室に有った絵本は全て書き写してノートも数冊使い終わっていた。同じ絵本を書き写すように言っていた先生は、同じ絵本じゃ嫌だとだだをこねた私のために、図書室の先生の特別な許可を取ってくれた。私は上機嫌だった。上級生にならなければ出入りのできない図書室に一年生になって半年も経たない私が自由に出入りできるようになったからだ。私は、宿題の絵本以外の本も借り出す事が許された。
おかげで、人並みに見て読める字を書けるようになった。同時に、たくさんのお話を読み、本好きになっていた。
私は、字が書けなった訳ではない。鉛筆で書くことが下手だったのである。その証拠に毛筆習字は一年生の時から常時次席の成績を取る腕前だった。けれども、万年次席だった。それ以上にもそれ以下にもなる事は無かった。
自分でも読めなかった自分が書いた字は、もう自信を持って読めるようになった。毎日続ける事の意味も体験した。
日本語は、不思議な言語である。日本語ほど言葉遣いや文章にその人が表れる言語は他に無いだろうと思う。それは、小学校の教師になって、数多くの子供たちに接して教えてきた経験からも断言できる。それと、日本語を勉強している外国人と交流していて、そこでの体験も「文は人なり。書は人なり。」である事を証明してくれた。
日本語が上手いとか下手とか言うけれど、それとは無関係に、話す言葉や書いた文にその人のその時の気持ちや普段の心、性格、考え方、価値観、態度などが如実に表れる。
日本語が分かるというのは、きっと人それぞれの日本語の違いが分かる事だろうと思う。日本語は難しいと感じるのは外国人だけではない。日本人でさえ難しいと感じている。こうして文章を書いている時には、一字一句、言葉を選んで、考えに考えて書いている。会話でも、どう言えば分かってくれるだろうか、きっとこれが言いたいのだろう、と思いながら話している。
日本語の口語は、文字に表すのも難しいくらい雑多である。正しい日本語というものは無いと言えるくらいだ。でも、きれいな言葉、美しく感じる日本語は在ると言って良い。冷たく感じる日本語や可愛げの無い日本語もある。温か味のある日本語や癒される日本語もある。
どんな日本語を話すのか、どんな日本語が身につくかは、その人次第である。どんな日本語を好きになるかという事なのだ。時々のその人の気持ちや心に似つかわしい言葉を好きになるのだ。日本語の文法でもないし、語彙の豊富さでもない。
日本語は難しいけれど、自分とその人の違いや良さ悪さが分かってくる面白さがある。
小学校一年生のある日、私は担任の先生に呼ばれて、一人だけ特別な宿題を出された。
「・・・・さん。これは、あなたのノートだけど。ここには、何を書いたの?読んでくれる?」
先生が指で指示した所は、ついさっき書いたばかりの所だった。
「あのね。・・・・・・と書いたよ。」
「そう。分かった。ちゃんと書いたのね。それじゃ、ここは?」
先生は、誉めながらも質問を続けた。そこは、昨日、書いた所だった。
「ええっと。・・・・・・と書いたよ。」
私は、しばし思い出しながら答えていた。内心、自信が無かったのだ。それも当然の事だった。そこに書いてある言葉は、文字と呼べるようなものではなく、「ミミズが這ったような字」だった。文字と言えるような形も成していないし、記号として判別できるようなものでもなかった。しかし、
「そう。昨日もよく勉強したね。書けていたのね。」
先生は、誉めてくれた。自分でも、よく覚えていたなと思いながら、自分のノートの字と級友のノートの字を横目で追っていた。級友のノートに記された文字は、きれいで読み易い文字だった。私は、文字を読むのが得意だったし、書いてある事も良く分かる子だった。三人兄弟の末っ子だった私は、四、五歳の頃より姉や兄のまねをして絵本や物語を読む遊びをしていた。そんな私に兄や姉は面白がってひらがなは元よりカタカナや漢字までも教えてくれたからだ。
「それじゃね。・・・・・さん。こっちは何て書いたの?」
「ええっと。ええっとね。・・・・・。わがらねぇ。」(わがらねぇ=分からない。方言)
もう、読む事も判別する事も思い出す事も不可能だった。
「・・・・さん。先生はね。・・・・・さんの書いた字を読みたいけど、読めないから困っているの。」
「だからね。今度はね。この本のお話をこのノートに書き写して来て欲しいの。いい?お家に持って行って、書いて来てね。」
そう言いながら、先生は真新しいノートと絵本を私に手渡した。私は、自分だけに持ち帰りを許された絵本が嬉しくて、自分だけの特別な宿題である事はこれっぽっちも気にならなかった。『舌切り雀』という題名の絵本だった。
この宿題は、それから一年半、毎日続いた。始めてから三月も経たない内に、教室に有った絵本は全て書き写してノートも数冊使い終わっていた。同じ絵本を書き写すように言っていた先生は、同じ絵本じゃ嫌だとだだをこねた私のために、図書室の先生の特別な許可を取ってくれた。私は上機嫌だった。上級生にならなければ出入りのできない図書室に一年生になって半年も経たない私が自由に出入りできるようになったからだ。私は、宿題の絵本以外の本も借り出す事が許された。
おかげで、人並みに見て読める字を書けるようになった。同時に、たくさんのお話を読み、本好きになっていた。
私は、字が書けなった訳ではない。鉛筆で書くことが下手だったのである。その証拠に毛筆習字は一年生の時から常時次席の成績を取る腕前だった。けれども、万年次席だった。それ以上にもそれ以下にもなる事は無かった。
自分でも読めなかった自分が書いた字は、もう自信を持って読めるようになった。毎日続ける事の意味も体験した。
日本語は、不思議な言語である。日本語ほど言葉遣いや文章にその人が表れる言語は他に無いだろうと思う。それは、小学校の教師になって、数多くの子供たちに接して教えてきた経験からも断言できる。それと、日本語を勉強している外国人と交流していて、そこでの体験も「文は人なり。書は人なり。」である事を証明してくれた。
日本語が上手いとか下手とか言うけれど、それとは無関係に、話す言葉や書いた文にその人のその時の気持ちや普段の心、性格、考え方、価値観、態度などが如実に表れる。
日本語が分かるというのは、きっと人それぞれの日本語の違いが分かる事だろうと思う。日本語は難しいと感じるのは外国人だけではない。日本人でさえ難しいと感じている。こうして文章を書いている時には、一字一句、言葉を選んで、考えに考えて書いている。会話でも、どう言えば分かってくれるだろうか、きっとこれが言いたいのだろう、と思いながら話している。
日本語の口語は、文字に表すのも難しいくらい雑多である。正しい日本語というものは無いと言えるくらいだ。でも、きれいな言葉、美しく感じる日本語は在ると言って良い。冷たく感じる日本語や可愛げの無い日本語もある。温か味のある日本語や癒される日本語もある。
どんな日本語を話すのか、どんな日本語が身につくかは、その人次第である。どんな日本語を好きになるかという事なのだ。時々のその人の気持ちや心に似つかわしい言葉を好きになるのだ。日本語の文法でもないし、語彙の豊富さでもない。
日本語は難しいけれど、自分とその人の違いや良さ悪さが分かってくる面白さがある。
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どんな日本語を話すのか、どんな日本語が身につくかは、その人次第である。
まったく同感です。私も自分なりの日本語を身に着けるつもりです。楽しく自分が言いたいことをちゃんと伝えると、それで十分だと思います。無論、綺麗な日本語で伝えることが出来たら、それはそれで嬉しいです。でも、日本語(またほかの言語)を勉強するという旅こそが、楽しいのですね。時々、いろんな感想が頭に浮かべてるので、なんか悟りのためにもなるしね~ ^^
今日の試験で「文は人なり」はどういう意味かっていう問題が出ました。先生のおかげで、正しい答えを選びました。ですから、ここで一言お礼を申し上げます。^^ありがとうございます。
よいお年を。